2011年9月1日
ホームページをリニューアルしました。
片山津の情報が盛りだくさんご紹介しております。
どうぞよろしくお願いいたします。
芸妓検番「花館(はなやかた)」は、芸妓の芸の練習場として、大正9年に建てられ、
各置屋から派遣された芸妓が、お互いの技能(踊り・三味線・鼓・唄など)を
磨き合った場所です。
昭和40年代には400人近い芸妓たちが、それぞれの置屋(当時30件余りあった)に
所属していて、ここで旅館などへの斡旋やスケジュール調整を行っていました。
現在片山津に現役の芸妓はおらず、検番は寄席やライブ会場として使われたりしています。
【外観】
外観は風情のあるベンガラ格子。対光・耐水・防虫・耐酸性・耐アルカリ性の
いずれにも優れています。
【一階】
玄関を入ってまず目に飛び込んでくるのは、ずらりと並んだ稲荷提灯。
これらの提灯には、芸妓さん一人ひとりの源氏名を入れて奉納されていて、
大きな提灯には、置屋さんの名前が入れられています。
【二階】
二階は、大正ロマン風の60畳の大ホールとなっていて、芸妓さんの練習や
発表会場だけに限らず、町の人たちの社交場としても広く使われました。
柱が一本もなく、天井は折り上げ格(ごう)天井なのでかなり広く感じます。
毎日芸妓さんたちが、乾拭きや茶ガラで磨いていたので、ステージや床は
光沢のある黒色をしています。
ダンスホールとしても使えるようにと、畳の下はフローリングになっています。
また、ステージ両端の階段は2つをくっつけて洋風の階段としても使える設計でした。
現在は展示室として使われている奥の部屋は、当時師匠の休憩場として
利用されていました。
*展示室にあるものの一部をご紹介!*
「篠原古戦場」は、平家の木曽義仲に最後の抵抗を試みて敗れた地。
平家の老将、斉藤別当実盛はかつて命を助けた義仲の情けを乞うことを善しとせず、
正々堂々と戦うために白髪を黒く染めて出陣しましたが、源氏の若武者に討たれ、
その討ち取った首を洗って初めて実盛と知った義仲は涙したと伝えられ
「首洗池」には義仲が悲涙にくれる名場面の像が建っています。
1キロほど離れた「実盛塚」 は、実盛のなきがらを葬ったところと伝えられ、
与謝野晶子は「北海が盛りたる砂にあらずして木曽の冠者がきづきつる塚」の句を残し、
今は老松が塚を守っています。
奥の細道でこの地を訪れた芭蕉も、実盛伝説をもとに
「むざんやな甲の下のきりぎりす」の名句を詠みました。
その句碑は首洗池のほとりに建てられています。
また、木曽義仲の奉納と伝えられる実盛の兜は、今も小松市多太神社で
見ることができます。
能楽の世阿弥も、実盛伝説に影響された一人です。謡曲「実盛」は、
布教のため加賀に訪れた遊行上人が実盛の霊を供養したという
言い伝えから生まれました。
伝説の戦場はやがて名作の舞台となり、今も多くの人々を惹きつけています。
柴山潟が今よりずっと大きく、片山津の村がとても貧しかった時代の話てす。
いつしか湖におろちが棲むようになりました。
夜中になると村人を襲ったり、近くの家を荒らすのもしばしば。
困りはてた村人たちは「なんとか村をお守りください」とお薬師さまに
お参りをかさねたのです。
それから何日か経った後、ひとりの美しい娘が倒れているのが見つかりました。
村人たちは心からの看病をしたのですが夜になると姿がありません。
娘はいつのまにか湖のほとりに来ていたのです。
「あぶないっ。あんなところにいたらおろちに食われてしまう」
村人たちがそう思った瞬間、突然おろちが大きな口を聞き、湖面から現れました。
しかし娘は逃げもせず、手にもつ琵琶をかき鳴らしはじめます。
それはたいへんうっとりする音色で、おろちの顔つきまでやさしくなって
しまったそうです。
「おまえは今、生まれ変わった。これからは竜神として村の守り神となれ」
そういうと娘は天へ、おろちは水中へと消え、二度と姿を見せませんでした。
村人たちは、娘をお薬師さまの命を受けた弁天さまに違いないと噂しあったそうです。
その後、柴山潟から湯源が発見され、片山津は北陸屈指の温泉街へと発展しました。
湖にある浮御堂と竜神像は、人々の感謝をしるして建てられたものです。